2014年1月3日金曜日

土地に歴史あり。 一見何の変哲もない土地に、とてつもない歴史が背後に潜んでいたりすると、ワクワクします。 松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本(当時の大日本帝国)の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。 ■概要■ 太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。 初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。 そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。また皆神山地下壕には備蓄庫が予定された。 関連施設は善光寺平一帯に造られたため「一大遷都」計画であった。上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山には送信施設、埴科郡清野村(現在の長野市)妻女山に受信施設、上水内郡茂菅村(現在の長野市)の善光寺温泉及び善白鉄道トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われている。 ■松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策■ 皇居には1935年頃、鋼鉄扉の防空室=地下金庫室が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇・香淳皇后は空襲警報発令のたびに宝剣神璽(三種の神器のうち剣と印)とともに皇居第2期庁舎の防空室に避難していた。 さらに1941年4月12日に御文庫が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mを重ねた計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。 戦況が悪化したため、1945年6月頃にさらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m2、56m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となった。 ■松代が選ばれた理由■ 大本営移動計画は後に終戦時の宮城事件に関わることになる陸軍省の井田正孝少佐が1944年1月に発案し、富永恭次次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、鉄道省の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所には松代が選定された。計画案の選定理由は以下のとおりである。 1:本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。 2:固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。 3:山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。 4:長野県は労働力が豊か。 5:長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。 6:信州は神州に通じ、品格もある。 ■建設■ 1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組(現西松建設)鹿島組(現鹿島建設)県土木部工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円。当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている。しかし、1945年8月15日の敗戦により、進捗度75%の段階で、工事は中止された。 昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王(今上天皇)、義宮(常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったといわれる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者(小倉庫次侍従、加藤進総務局長)が訪れ、内大臣の木戸幸一の日記(木戸日記)の1945年7月31日付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。 なお、松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、連合国軍が南九州に上陸するとの想定のもと、より作戦が取りやすいという理由などから、奈良県天理市の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。 ■賢所の建設■ 皇居内の賢所に置かれていた三種の神器は天皇の動座とともに松代に移される計画であった。当初、三種の神器を安置する場所は、舞鶴山地下壕の地下宮殿の奥に計画されていたが、「陛下に万が一のことがあっても、三種の神器は不可侵である。同じ場所には許されない。陛下の常の御座所と伊勢の皇太神宮を結ぶ線上に南面して造営し、しかもその掘削には純粋の日本人の手によること」と宮内省の強い指導があった。 場所は舞鶴山の西、清水寺、西楽寺の真裏の弘法山の山腹に決まった。掘削要員は「純粋の日本人」ということで熱海の鉄道教習所の少年隊に決まった。7月初め現地で起工式が行われ、9月末に完成予定であったが、敗戦により中止となった。 ■跡地利用■ 1946年(昭和21年)、埴科郡仏教会が旧大蔵省より舞鶴山のⅣ号舎(仮御座所)を払い下げを受け、児童養護施設恵愛学園とする。 1947年(昭和22年)、この松代大本営を戦災孤児のための施設に転用しようという動きがあったが実現しなかった。 1947年(昭和22年)、舞鶴山のコンクリート庁舎に中央気象台(気象庁)の松代分室(地震観測所)が設けられ、舞鶴山地下壕には、各種地震計が設置された。現在では日本最大規模の精密地震観測室となっている。 1967年(昭和42年)、松代群発地震発生で舞鶴山のコンクリート庁舎Ⅲ号舎(宮内省庁舎)に気象庁の松代地震センターが設置される。 1990年(平成2年)、長野市により象山地下壕の一部(約500m)が一般に内部公開される 。なお象山地下壕1番壕には信州大学の宇宙線観測施設が設けられている。

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